旭川ロータリークラブ誕生余話
創立70年にあたり
旭川RC(PG)山 川 久 明
●旭川RCは1934(昭9)年10月26日設立総会を旭川市4条8丁目北海ホテル(現在はない)で行った。
スポンサークラブは小樽RCで、設立時の会員は25名であった(チャーターメンバー山崎清軒さん談)。
当時の日本においては20番目、道内では3番目のクラブであった。旭川RCの設立総会の前日、10月25日に函館RCが設立総会を開いているので、函館RCが3番目でないのかという考えは当然である。
然し国際ロータリーの承認番号(これは1951(昭26)年6月末までに承認されたクラブについていた番号)によれば、旭川はNO.3744であり函館はNO.3747であり、旭川は3番目となる。
これについてはアルファベットにより、旭川は〔A〕で先になったというもっともらしい説もあるが旭川と同じ年に旭川より後の11月に設立された満州の新京RCがNO.3742となっており、RIがどのような根拠によってNOをつけたかわからない。ただ考えられることは設立に関する書類等は総て英文であったが創立後3期にわたって幹事になった荒滝実さん(旭川少年団長、医師)が海外留学の経験があり、英語に堪能であり、ロータリーの会合ではシルクハットにタキシードで出席されるほどの人ですから、書類等は意をつくし
て提出したのではないかと思われる。
どちらが先か後かなどオリンピックの順でもないので問題にすることもないが、先人が長い間3番目と自負してきたものを今さら変えることもない。なお設立時日本で20番目と言うのは、当時の日本では設立順に並べると現在の韓国の京城、中国東北地区の大連・奉天・ハルビン、台湾の台北・高雄の6クラブが旭川より先に設立されていた。だから現在の日本では、旭川RCは14番目のクラブである。
●何故スポンサークラブが小樽クラブであったのか。
1932(昭7)年12月に設立された先進札幌RCではなく僅か1年にもみたない1933(昭8)年12月に設立された小樽クラブであったのか、これは当時の旭川経済と小樽経済の密接な関係をあらわしていると言っていい。当時の旭川市唯一の社交の殿堂であり、ロータリーの設立総会が行われた北海ホテルは、1920(大正9)年小樽の竃k海ホテルが旭川市4条8丁目に旭川支店として始めたのである。これは小樽経済の強い影響があった無視出来ない事実である。
旭川RCの初代会長は岡田重次郎さんである。当時岡田さんは旭川商工会議所第5代会頭(昭和7年4月〜昭和11年11月)であったが、業務は酒造業、北の誉旭川の社長であった。然し職業分類の職名は野口合資会社代表社員となっている。これでわかるように主家は小樽の野口家であり、旭川における城代家老的存在であった。旭川RCの設立にも小樽の酒造業、竃口商店社長野口喜一郎さんの強いおすすめがあったのであろう。1935(昭10)年8月10日の旭川RCのチャーターナイトには野口さん一家が参加されていることからも、そのことがよくうかがわれる。さらに、チャーターメンバーに合同酒精叶齧アの堀末治さんがいるが、堀さんも野口商店に勤務しており、1924(大13)年10月合同酒精鰍ェ設立されるや来旭、合同酒精鰍フ経営にあたっておられ、チャーターナイトの層雲峡遊覧には合同酒精活動写真班が同行、特別サービスを行っている。
スポンサークラブが小樽RCであったのもまた宜なる哉である。なお、堀さんは戦後、旭川商工会議所第7代会頭(昭21年9月〜昭30年11月)として、また参議院議員として戦後の旭川、北海道、国家に多大な貢献をしている。
●旭川RCは今なお何故アサヒガワか。
旭川の開基は1890(明治23)年9月20日である。この時の道庁告示には清音のアサヒカワであったが、この月の29日の官報には濁音のアサヒガワとなっていた。以後国鉄であった駅名や郵便局のスタンプなどは濁音であった。それが現在のように清音に統一されたのは旭川開基100年の1990(平成2)年の時からである。然し設立時の1934(昭9)年10月に承認された書類、クラブ旗はじめ備品等はアサヒガワであった。
然し、このアサヒガワが設立以来一貫して使用されてきたわけでない。会報の第1号が発行されたのは、月報として1950(昭25)年の11月6日付からであり、1カ月の報告その他が掲載されていた。その後、形式その他変遷を経て発行されていたが、1962(昭37)年9月14日付第631回例会までの表紙は清音のアサヒカワであったが、翌号から濁音のアサヒガワとなっている。
この変更にあたってはいろいろの論議があったと思うが、時の会長が岡田正雄さんであることから大いに納得出来る。岡田さんはロータリーにおける理論家として高名であり、初代会長の岡田さんの孫で、北の誉社長であり、1966(昭41)〜67(昭42)年の地区ガバナーを務め、また1968(昭43)年11月から1976(昭51)年10月まで旭川商工会議所副会頭をしている。旭川クラブの名称を創立時の濁音アサヒガワに戻したのであろう。勿論今も濁音のアサヒガワである。
●創立時の会員は果たして何名であったのか。
いろいろの記録では30名というのがやや定説のようになっているが、1934(昭9)年10月26日創立総会時のチャーターメンバーの山崎清軒さんの公式の場における発言によれば、25名であったと言う。それが1935(昭10)年8月10日のチャーターナイトまでに5人が入会したとも言っている。山崎清軒さんは1957(昭32)年12月から1967(昭42)まで旭川商工会議所副会頭をしており、その発言には重みがある。つまり、チャーターナイトの人員により30名ということになる。然し、チャーターナイトの参加者は会員が32名となっており、このうち2名は現在残されている創立会員名簿には載っていないが、その後入会しているのでロータリーとはどんな会か見学に来ていたので参加者の名簿に載っていたのであろう。だから重ねて言うが創立会員は30名となる。
●旭川RCは激動の中で生まれ、そして一時解散。
1926(大15)年12月25日、第123代大正天皇崩御、昭和と改元、この昭和時代を後世の史家はどのように論ずるか極めて興味あるところだ。日本帝国は史上最大の版図を一時その掌中におさめ、1945(昭20)年8月15日崩壊、滅亡した。そして新生日本は廃墟の中から奇跡的に復興、人類未曾有の飽食の日々を堪能するなど破天荒極まる時代であった。
旭川RCは軍部ファッショが横行する中、第7師団所在地の軍都旭川で1934(昭9)年10月26日に生まれた。昭和に入ってからも日本で生まれたクラブは多いが、北辺の軍都、しかも1932(昭7)年9月、第7師団に混成旅団(約3,000人)が編成され満州派遣の命令が出ており、1934(昭9)年2月第7師団が小樽などから出兵するなど市内唯一のメインストリートを師団通りと称していた旭川市の緊張はただならぬものがあったであろう。このような状態の中、旭川RCは生まれた。人口約9万の軍都旭川での設立は、日本のロータリーの中でも特筆すべきものであると言っても過言ではない。然し時代に抵抗すべくもなく1940(昭15)年9月23日解散のやむなきに至った。時の会長は大塚守穂さんであった。7月1日就任から僅か2ヶ月余であった。
旭川RCとして最短の会長任期であったが大塚さんにはさらに短い記録がある。1947(昭22)年4月5日、地方自治法により、初の市民による旭川市長選挙が行われ、大塚さんは無所属で立候補、立候補者5名であったが全有権者51、800余人のうち大塚さんは17,000余票を得て当選、第8代旭川市長となったが当選直後勅令の改正により戦犯追放の範囲が拡大され、大塚さんが地方自治体議員の推薦母体の1人であったためこれに該当、5月1日辞表提出、5月14日初市議会に承認、市長在任僅か40日間であった。人の天命はわからぬ、何れにしても大塚さんは戦前の旭川RCのチャーターメンバーとして、そして最後の会長としてその幕をおろした。
旭川RC70年を心から祝ってその前途益々隆昌あらんことを祈念してやまない。
2004.10.26